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王銘エン九段著「純碁」

王銘エン九段著「純碁」


以下の文章は、王銘エン九段が「週刊碁」1999年6月28日号から同年9月13日号まで計11回にわたって連載した「碁を打てないとは言わせない」の全文をまとめたものです。なお本文中、連載時に「基礎囲碁」と表記されていた名称はすべて「純碁」に変更してあります。また連載時に見出しのなかったものには、新たに見出しをつけたことを付記しておきます。
「純碁」全文の当ページへの転載を快く許可してくださった王銘エン九段に心より感謝いたします。


碁を打てないとは言わせない


囲碁人口一億人への夢

 「ポン抜きゲーム」が注目を集めています。碁盤の前でさっそく碁石を取りゲームを始める姿に喜びと感動の声があがっています。「碁の入り口になる、碁とちょっと違う遊び方」として認知されたと言ってもいいでしょう。
 しかし、「ポン抜きゲーム」と碁との距離はやはり遠い。「ポン抜きゲーム」からそのまま囲碁ファンとして定着していく例がまだそれほど目立ちません。「ポン抜きゲーム」を如何に碁と結び付けるか、新たな悩みがうまれています。
 「ポン抜きゲーム」と「囲碁」のあいだにかかる橋、私が用意してきました。

 純 碁 の 要 点
 使用碁盤  七−九路盤
 ゲーム目的  碁盤に相手より多く石を置くこと 
 終 局  両パス終局
 勝負確認  終局時点の盤上の石を数え、多い方の勝ち 

 このゲーム(純碁)をやることによって、碁が打てるようになるでしょう。一言でいえば最後に碁盤にたくさん残るようにすればいいのです。石の打ち方や取り方は「ポン抜きゲーム」と同じですから問題はありません。コウのルールはコウが出来た時に教えればいい。誰にでもすぐ「打てます」。興味のある方はさっそく試してみてはいかがでしょう。
 このゲームをやっていればそのまま「碁が打てる直行便」に乗ったようなものです。なぜなら「純碁」は「碁そのもの」なのです。「純碁」で覚えた事はそのまま碁でも使えます。なぜ「純碁」が「ポン抜きゲーム」と囲碁をつなぐものになるのか、また、どうしてそれが碁そのものなのか、次回から説明していきます。

(「週刊碁」99年6月28日号)




 私 の 提 案

第1回 囲碁の「ゲーム目的」とは?

 「ポン抜きゲーム」は囲碁の入門の難しさから生まれました。
 碁を打つのにまず「石を取るかたち」に慣れなければいけません。そのため「ポン抜きゲーム」はいいトレーニングになるでしょう。
 しかし、石を取ることは碁の「対局中のルール」であって「ゲーム目的」ではありません。碁の入門における最大の難関はこの「ゲーム目的」なのです。
 囲碁の「ゲーム目的」は「地を囲う」ことです。そのためには「地の認識」ができなければ成り立ちません。この地の認識はこれから入門しようとしている人にとって大変難しいものです。
 地の形を覚えるほかに地の中の敵石の死活、そして地の中に侵入してきた敵をせん滅する能力まで要求されます。「ゲーム目的」を理解できないままでは「プレー」(碁を打つこと)ができません。
 囲碁の「ゲーム目的」を極限までにわかりやすくしたのが「純碁」です。「最後に多く残っているほうが勝つ」この「ゲーム目的」はだれにも簡単に理解できるでしょう。九路盤で打てば十分楽しめますが、七路盤ぐらいから始めることもできます。
 「純碁」はどういうものか、さっそくはいってみましょう。
 1図 七路盤純碁の棋譜です。強い人どうしが打ったもので、最後は最大限に自分の石を盤上に置き、両パスで終局しました。
 なるべく自由に考えていただきたいのは終局のところです。終局の時期や認識は対局者本人が決めることです。初心者同士ですととんでもない形で終局するかもしれません。(2図)
 それでも、本人にとっては「碁を打った」ことになるのです。

1図
2図
1図 白は34からパスします。黒61のあと白62と黒63の両パスで終局
2図 対局者本人が決める終局ではこうした形も珍しくはない
(「週刊碁」99年7月5日号)




第2回 囲碁普及における問題点

 前回、ポン抜きゲームから次の段階へ進むために、どのように考えたら自然に囲碁というゲーム(地を囲う)を認識できるのか、というテーマで私は純碁を提示し、「石が多く残っている方の勝ち」をゲーム目的とすることにしました。
 では、なぜ「多く残っている方が勝つ」ことが「碁そのもの」なのか、分かりにくいのはこっちの方でしょう。これが結構ややこしい話になります。しかし、その原因を理解することで、囲碁の普及の問題点も見えてくると私は考えています。
 いま、世界の囲碁には二つのルール(日本ルールと中国ルール)が共存していることは皆さんご存知のところだと思います。二つのルールには本質の違いはなく、計算の仕方が違うだけです。ルールによって勝敗に影響することが殆どないため、世界棋戦も盛んに行われています。
 碁におけるルールの違いは「計算法」の違いです。碁の最終「スコア」は他のゲームと比べてかなり多くなります。それをいかに簡単に集計するか−−「スコア集計の簡略化」の方法の違いがルールの違いになりました。ここが注目すべき点です。
 そして「スコア集計の簡略化」を行わないルール、それが「純碁」なのです。

 難解なワケ

 囲碁が発明されたときはこの「純碁」のやり方でスタートした、と私は考えています。打つ人の棋力が上がるのにつれ、スコアの賢い集計法が色々考え出され、今日の姿になりました(ルールについてはあとで詳しく説明します)。
 しかし、賢い集計法を理解したり実際に使うためにはそれ相応の棋力が必要です。打っている人にとって使いやすいルール(計算法)はこれから覚えようとしている人にとって難解なルールになったのです。
 今までは碁を教える側と覚える側、両方が時間、エネルギー、そして場所を出しあい、この問題を克服してきました。だが、今の日本にはその環境が失われつつあります。囲碁入門が難しくなってきたのがそのためだと思います。
 そこで、私たちは改めてルール(計算法)について考えなくてはなりません。ルールは打つ人のためにあるのです。打っている人自身にとって一番使いやすいルールが一番いいルールだと思います。入門者にとって一番使いやすいルールが、それが「純碁」です。

(「週刊碁」99年7月12日号)




第3回 オセロと比べてみると…

 「オセロ」というゲームと比べてみると分かりやすいと思います。「オセロ」を知らない人はいないと言っていいでしょう。また「オセロを知っている」ことは「オセロが出来る」と同意語です。
 「オセロ」を他の人がやっているところを見て、ルールを聞き、そしてすぐプレーした。皆さんだいだいそんな感じかと思います。つまり、「オセロ」のルールは「聞いたそのときから理解できる」のです。
 そこで「純碁」のルールと「オセロ」のルールを比べてみましょう。「オセロ」の「はさめばひっくり返せる」にたいして「かこめば取れる」共に相手の得点をへらす手段です。その難しさに大差があるとも思えません(碁では石を囲む形が難しいという意見もありますが、オセロでもタテ、ヨコ、ナナメと正確にひっくり返すのは、けっこう難しい)。そして「最後にたくさん残った方が勝ち」という点では同じです。使用碁盤も七−九路盤とオセロの八路盤と変わりません。
 「純碁」の覚えやすさはなんと「オセロ」と同じです。「碁が打てないとは言わせない」、このタイトルはそういう思いからつけたのです。
 もう一度「オセロ」をはじめてやった時のことを思いだしてください。「オセロ」では隅(1の一)は急所にあたることも皆さんご存知でしょう。では、そのことは誰に教えてもらったかといいますと、ほとんどはプレー中に自分で発見したものでしょう。それに気が付いたとき、「なぜ今までこんな簡単なことに気が付かなかったか」と思うでしょうか。いえ、けっしてそんな事はないでしょう。たぶん「大変いいことに気が付いた。これからオセロじゃ簡単に負けないぞ」そう思ったことでしょう。そして「今までその事に気が付かなかった自分のやったゲームはオセロとはいえない」と恥じたのでしょうか。これも決してそんなことはなく、むしろ「今日のオセロはおもしろかった」、そういう気持ちだったのではないでしょうか。
 「純碁」でも同じことが言えると思います。死活や地、布石、終局のしかた、タイミング、すべて対局者同士にゆだねればいいのです。私たちから見てどんな手を打っていても本人が「碁を打っている」と思ってくれればいいのです。死活や地の囲い方などはテクニックにすぎません。
 「碁を打つ」中で発見し、喜びさえ感じることでしょう。今まで私たちは入門者にあまりにも難しいことを求めすぎました。

(「週刊碁」99年7月19日号)




第4回 計算法だけが違う「純碁」

 今までの私の「純碁」という提案について色々な疑問や反対意見もあるでしょう。
 まず、この「純碁」から入門した人にいつ「普通の囲碁」を教えるかという疑問があるでしょう。「打っている人にとって一番使いやすいルールが一番いいルール」、これが私の答えです。
 碁の最初の形だった「純碁」を何故いま誰もやらないのか、答えは簡単です。自分の地に最後まで石を置くのがつまらなくなったのです。「地」の認識ができるようになり、自分からその中に手をいれるのがつまらなく感じるとき−−それが「普通の碁」を教えるときです。またそのときこっちが教えなくても、向こうから聞いてくるでしょう。
 次に、碁をそういう形にしてもはたして本当に囲碁ファンが増えるのかという疑問もあるでしょう。これはやってみないことには分からないとしか言いようがありません。
 「人間には碁を覚えられる人種と覚えられない人種とに分かれている」。皆さんどこかでそのように思っていないでしょうか。たしかに人間には向き不向きはあります。「純碁」から入門した人が全員「普通の碁」が打てるようになるとは思いません。しかし、碁は色々な能力が要求されるゲームです。最初の飲みこみが悪いだけで碁の才能がないと決め付けるのはあまりに「もったいない」ではないでしょうか。
 碁の入門の方法は一つではなく、またそうでなければいけません。今までのやり方でうまくいかなかった方にひとつのメニューを加えてみた、というのが私の気持ちです。ただ、前に話したように「純碁」は「計算法」以外に普通の碁と違うものではありません。もし「純碁」をやっている人に出会ったら「これは碁ではない」と言わないでほしい、これが私からのお願いです。

 純碁=中国ルール?

 もう一つの疑問がありそうです。「石が多い方が勝ち」では「中国ルール」と同じではないかということです。また「純碁」から入門すると中国ルールの感覚になり日本ルールがなじまなくなる、という心配もあるようですが、私はその心配はないと確信しています。その理由は来週からしっかり説明したいと思います。

(「週刊碁」99年7月26日号)




第5回 日本ルールと中国ルール

 「純碁」と今行われている「日本ルール」、「中国ルール」とはどういう関係にあるのか、これから考えていきましょう。
 「純碁」は碁の一番最初の形と前に触れましたが、それには理由があります。「切賃」(キリチン)というルールの存在があったからです。「切賃」は日本では戦前まで地方で行われていたと聞きます。中国では「塊数還子」と言いまして、やはり近代まで使われていました。今こそ「切賃」を知る人が少なくなりましたが、長い囲碁の歴史からみれば「切賃」が使われた時代の方がずっと長いのです。
 「切賃」とはどういうルールかといいますと、「盤上の生きている個所が相手より多い分、一ヶ所につきコミを二目支払う」というルールです。一回相手の石を切るたび二目もらえるから「切賃」になるのです。

1図
2図
    1図
    2図

 九路盤で説明しましょう。1図、47手で終局になります。日本ルールでは黒の五目勝ちになります。中国ルールでは2図、地の中の死に石を取り除き、黒地(×)をいったん全部黒石とみなし、そして盤上にある石と合計した数で勝負します。その結果、黒43子になり碁盤の半分の40と1/2より2と1/2多い分だけ、黒の2と1/2子勝ちということになります。一子が二目にあたりますので、日本ルールと結果が一致します。
 この碁に「切賃」を適用しますと、黒が一石にたいし白が二カ所に分かれていますので、黒より一ヶ所多い分白が二目コミを出さなくてはなりません。そのため黒七目勝ち、中国ルールでは3と1/2子勝ちと結果が変わります。いまでみると変な感じがするこの「切賃」、なぜ長い間使われたか、不思議に思われるでしょう。
3図
    3図

 では、今の碁を「純碁」で打ってみましょう。3図、47手のあとでもまだ着手がつづき、終局となります。数えてみると黒石41、白石34で黒七目勝ちです。つまり、「切賃」を適用した結果と同じになります。図3では生存のために残された白眼四つと黒眼二つはいまのルールでは地や石とみなされますが、「純碁」ではただの空点にすぎません。「切賃」とは「今のルールの結果を純碁の結果に合わせるためのルール」だったのです。
(「週刊碁」99年8月2日号)




第6回 “純碁”から現在の囲碁へ

 今のルールの結果を「純碁」の結果に合わせるためのルール「切賃」が長い間(数千年)行われてきた。これはどういうことを意味するのでしょうか。碁の技術が進歩し、自分の地に手を入れることを省く計算法(日本ルールと中国ルール)を使いながらも、純碁の考え方(石が多く残っている方の勝ち)を守ってきた、ということです。「純碁」はそういう意味でも価値ある存在だと思います。
 それなら、なぜその「切賃」が今行われなくなったのか。これは棋力の向上と密接な関係があると思います。
 碁が強くなるにつれ、行う回数が多くなること。それが形勢判断です。形勢判断をするには目算−「地」を数えるよりありません。長いあいだ、人は「地」を数えた結果に「切賃」を念頭に置いて形勢判断をしていた。しかし、碁が強くなればなるほど、「地」を囲うために苦心し、地を数えるため時間を費やし、「地」がかわいくなってきます。そして、碁の「目的」が「石」ではなく「地」だという感覚に変わってきたのです。今「地」を碁の「目的」としている私たちにこの感覚は容易に理解できるでしょう。

囲碁ルールの変化

 ここで一つ囲碁ルールの進化図を描いてみます。
 この図を描いたのは各ルールの関係をはっきりさせ、「純碁は中国ルールに近いものではない」ことを説明するためです。「中国ルールプラス切賃」と「中国ルール」が離れていて、その間は虚線で結ばれているところがポイントになります。
 中国ルールと言うとなんとなく親しめない感じがする方が多いようです。一方、中国ルールに理解ある方は「中国ルールは日本ルールより優れている」というように思っている方もいます。しかし、この二つの見方とも多少誤解があるかもしれません。次週はその辺りについて考えたいと思います。
(「週刊碁」99年8月9日号)




第7回 “石”本位の考え方

 中国ルールは、中国ルールプラス切賃の後にあるべきと考えるのが一般的ですが、私は違うと考えています。
 ルールというと中国ルールと日本ルールの二つの大きな流れがあり、「切賃」は盲腸のようなもの、というふうに考えられてきた傾向があります。大事なのはむしろ「切賃」の方ではないでしょうか。
 「切賃」さえつけていれば、どっちのルールであろうが「純碁の結果にあわせる」という考え方になります。つまり、「石本位計算法」です。日本ルールで計算していてもあくまでも便利のためであって、最後に「切賃」を支払い、「石本位計算法」に忠誠心を示すものです。
 そして、その逆も同じになります。中国ルールを使用していても、「切賃」がなければ、便利のために石を数えているのにすぎず、その実態は「地本位計算法」だと私は思っています。

1図
2図
    1図
    2図

 1図、前に一度使った図です。中国ルールでは各自の地を全部石と「みなし」合計した石数で勝負すると説明しました。その「みなす」ところが問題です。
 2図、「純碁」終了図をみれば問題がはっきりします。盤上に残っている空点をどのような理由で石と「みなす」のでしょう。いまの中国ルールにもその解釈がなされていない。その答えは一つしかないと思います−−それが「地」だからです。
 「切賃」を取り除くことはそのまま「地本位計算法」になります。中国ルールを知るにはこのことをもっと意識するべきです。今の中国ルールは「地」と「石」両方数えてますが「地」の方がメインであって「石」を数えるのはほかに理由があったからです。
 「切賃」をなくす動きは日本ルールを使用しているグループから始まったことでしょう。そのグループは棋力にも優れていたため(強い人ほど日本ルールを使いたがる)発言力も強く、いまの日本ルールが中国でメインのルールになった時期があったと思われます。そのことは日本には日本ルールしか伝来しなかった事からも推測できます。では、なぜ中国ルールがまた使われ出したのでしょう。
(「週刊碁」99年8月16・23日号)




第8回 ルールに優劣はない

 中国でメインルールとして君臨した日本ルールがその地位を失った原因、それはやはりトラブルの多発でしょう。日本ルールには棋力のほかに、打つ人にある程度の共通認識を要求します。天下泰平なら無難であっても、乱世になればなるほど、うまくいかなくなるでしょう。
 そこで、ふたたび中国ルールが多く使われるようになり、今日にいたったのでしょう。中国ルールの「石本位」の発想だけからでは「切賃」をなくすのがむずかしい。中国ルールがなしくずしに切賃をなくしたのではなく、いったん「地本位主義」を受け入れてからの再スタート、そういういきさつがあったと私は考えています。
 ルールの進化図における中国ルールの位置が日本ルールの後にくるのはそのためです。今日の「日本ルール」と「中国ルール」は互いに担い合う関係であり、似た者同士だということが見えてくるでしょう。中国ルールと初めて出会うときはその外見にびっくりしますが、その中身は限りなく「日本的」なのです。中国ルールと日本ルール両方とも「地」が基本ですから日本ルールを使う人にとって中国ルールは違和感を覚えますが、中国ルールを使う人には日本ルールはごく自然の考え方とも言えます。ですから「純碁」から入門すると中国ルールに傾くという心配もすることはないでしょう。

囲碁ルールの変化

 もう一つ、「中国ルールが日本ルールより優れている」という議論についてですが、ゲームにはまず「ゲーム目的」が大事です。
 今の中国ルールでは「ゲーム目的」を「地」と「石」の両方をとるようになっています。これはいいところだけ取ったと考えることもできますが、トラブルを避けるための処理であって、いまひとつ必然性に欠ける気がします。その点「切賃」をなくし、「地」ひとすじの日本ルールはすっきりしています。「中国ルールが日本ルールより優れている」という意見には賛成できません。
 日本ルールは平成元年の改定で一応理論的な問題はクリアできたと思います。「打つ人に必要な棋力があれば」ほとんどのトラブルを解決できるようになりました。かと言って、逆に「日本ルールの方が優れている」とも考えてません。ルールに優劣などなく、「使う人にとってよければそれでいい」それが私の考えであり、またこのコーナーの目的「純碁」の原点でもあるのです。
 次回は、読者から寄せられた疑問や問題点を検討しながら「純碁」のまとめに入りたいと思います。私の提案が指導者の皆様の囲碁入門マニュアル作りの一助になれば幸いです。
(「週刊碁」99年8月30日号)




第9回 「純碁」も「家族」の一員

 まとめ(1)

 ながながとルールの説明をしてしまいました。中国ルールと日本ルールは対立するものではなく、担い合う関係であるという事を理解していただけたでしょうか。
 ルールとは「囲碁」という母体から生まれ、打つ人の環境の違いによって、少しずつ違う姿になっているにすぎず、まさに「兄弟」のようなものだと思います。日本ルールと中国ルールは一番若い仲のいい年子の兄弟、「純碁」はぐんと年の離れた長男といったところでしょう。
 一つだけ皆さんにとって気になる事が残っていました。「純碁」と日本ルールが碁形によって勝負結果が少し違ってくることです。私は対局者が承知であれば問題はないと思います。九路盤限定で入門者のためのルールですから、あまり細かいことにこだわることもないでしょう。また碁形によって勝負結果が変わる事は「中国ルール」でも同じです。結局「碁が強い方が勝つ」という事に変わりがないと思います。どのルールで打っても要求されるテクニック、面白さに変わりはないでしょう。
 今や「中国ルールは碁ではない」と考える方はいないでしょう。そういう意味では「純碁」も紛れもなく「囲碁家族」の一員なのです。そして、今私たちは「純碁」の力を必要としているのです。
 囲碁の入門のときに一番てこずるのは「囲碁の自己紹介」のところです。「囲碁とはこういうものです」と説明する役目を若い「日本ルール」に任せてきましたが、性格は気難しく言葉もわかりにくいと、評判はよくありません(仲良くなればこんなに面白いやつもいないけど)。ここはひとつわかりやすく親切な「純碁」にかわってもらいましょう。どっちみち「囲碁一家」なのです。「中国ルールも碁である」と「兄弟」として認識されたいま、もう一つ「純碁も碁である」と「認知」してあげればいいのです。
 「純碁」の提案で私が一番ポイントと思っているのはこの「認知」の問題です。年の離れた「純碁」という兄弟を「家族」として「認知」するだけで、碁が打てない人が一人もいなくなるのです。「碁のスコア集計のもう一つの方法」を認めるだけで囲碁事情が一変する可能性を秘めているのです。日本中(世界中)の人がすべて碁を打てる、私たちにとって究極の夢ではありませんか。
 ただ、このコーナーで何度も強調しているようにルールは使う人のために存在するのです。「純碁」が社会的に認定されるためには、実際に「純碁」で入門する人がたくさんいて、「純碁」で打てる場所がたくさんあって、そして相手がたくさんいるようにならなければいけない。「碁が打てないとは言わせない」ためには、碁が打てる私たち自身が本当にそう望んで初めて出来るでしょう。

(「週刊碁」99年9月6日号)




第10回 「純碁」の普及と今後の課題

 まとめ(2)

 このコーナーの連載中たくさんの手紙と提案そして反響をいただきました。今週はそのお礼と、私の返事と共に最終回とさせていただきます。
 まず、最後の方になって多くなったのが「難しい」という声でしたが、これはもう私の話し方がへただったためでして、お詫び申し上げます。難しくなったのは囲碁ルールの説明のところだと思いますが、ルールの話は本当はどうでもいいことです。「碁を一番簡単に覚える」そして「碁を一番簡単に教える」にはどうすればいいか、これが私の考えていることのすべてです。その方法として提案した「純碁」と「碁」との関係を説明するところで難しくなったようです。もし分かりにくかったら、ここは一つ私を信じて頂くことにしましょう−−「純碁」も「碁」の一つの形であるのです。
 次にこのコーナーの最初に「基礎囲碁」の命名について募集したところ、多くの案がよせられまして大変参考になりました。ありがとうございました。「純碁」が入門の方法の一つになるためには、多くの人が行うようにならなければうまくいかない、そのためには多くの人に助けてもらう事になります。命名に関してはすこし時間をかけて、やはり多くの人と相談して、皆さんに納得できる名前をみつけたいと思います。このシリーズでは「基礎囲碁」で通しました(注:のちに「純碁」と決定したため、このホームページでは「純碁」と書き換えています)。
 林道義先生からも手紙を頂きました。中で「方法化」することが大事と言及されました。「純碁」で入門するためのソフトの充実。これが私の当面の目標です。「純碁」から入門すれば、「入門」の問題がなくなり、後は上達の問題しかのこらないと「豪語(?)」しましたが、現実には参考になるものが多いほどいいでしょう。本、ビデオ、「純碁」そのものの宣伝など、いくらでもありそうです。手始めに今度発売されるパソコン用の囲碁学習ソフトに純碁コーナーを入れてもらうことになりました。「純碁」のところをクリックすれば純碁のルールで対局できる、そういう形になるかと思います。
 本文の最初のころ「純碁」を提案するにあたって「ポン抜きゲーム」を引き合いにだしたので、「純碁」は子どもに教える方法なのかという質問ももらいました。もちろん子どもの入門に「純碁」は大変便利と思いますが、私はむしろ大人になってから碁を覚えるためにこそ「純碁」が必要だと思います。「地」の認識は子どものやわらかい頭より大人の方が大変なのです。いままで家族や友人に碁を教えることをあきらめてきた方たち、「純碁」でもう一度試してはいかがでしょうか。
 私にとって大変嬉しい便りもありました。沖縄の宮国さんからです。ずっとまえから同じようなことを考えていて、しかもある程度入門教室に取り入れているようです。ぜひ今までの経験を教えてほしいものです。一ヶ所だけでこういう教え方をすると色々難しい事もあったかと思いますが、「純碁」が広く行われるようになればやりやすくなるでしょう。
 囲碁を今よりたくさんの人に打ってもらいたい。これは碁を打つ人の共通の願いです。「碁を打てない人がいなくなる」この夢のような事がずっと私たちの目の前にあったのです。手を出せばすぐ届くところにあるのです。そう、「純碁を碁の仲間として認めてあげる」たったそれだけのことです。

(「週刊碁」99年9月13日号)


最終更新日:1999.12.18